被爆30年忌に当たり(ながさき)
原 喜久子
(明治33年生、昭和51年3月11日77歳で他界)
むごたらしい原爆惨禍の日から、早や30年を経たのかと歳月の流れの早さに驚くばかりである。だだし、何十年経っても、この日の地獄絵は、まな裏に焼き付いて、つい昨日の出来事の様に思われる。最近は被爆の惨状も段々忘れ勝ちになり、風化しつつ有ることは。遺憾に絶えない事だと、改めて想いを当時に還し、悲惨の1部を記述する事にしました。
処で原爆投下前を記する事を迷いましたが終戦前の庶民の犠牲を述べたく、あえて記すことにした。
私の一家は終戦の何ケ月か前まで、紺屋町に住んでいた。処がある日、突然命令の通達があり、2階の有る家は天井を外せとのことです。これは焼夷弾が天井に溜まらぬ様にとの配慮と聞きました。命令に従って天井板を突き破って貰ってから、3日目のことでした。今度は紺屋町の家全部を解体するので立ち退けとの命令です。
これは最悪の折に市民の避難の広場にするのだとの事でした。「サアー大変だ」第一困るのは家族の住む家が無い事でした。当時は全て命令に従はねばならぬ非常時であり、上意下達は至上のもので一言の不平も許されなかったのです。ある一家は故郷に帰り、ある家は親族に同居との混乱ぶりは大変なものでした。身を寄せても家具類まで持つ事は不可能で、紺屋町の全部が俄かに古道具屋と化したのです.タンスその他の大きな家財を自家の前に並べて大安売りが始った。
私の家でも大きなタンスをただ同様の値で売り、大きな机本棚等、荷になる家具を処分し、重荷になる父の本はたいてい学生が貰っていった様でした。「早急に立ち退け」「家を解体するため」との命令だけで、移り行く家の保証もなく、また、心の通った指示もないまま町中がどんなに混雑したか、想像に余りありましょう。
我が一家はさる奇特の方のお世話で本古川町の小さな2階建の家に転居し、ここで被爆したのです。
(昭和20年8月9日11時2分)私は学徒動員で造船所に配置され、登校日は少なく工場で働いていたが、被爆の日は家に居たのでした。
何か重いような音が聞こえたと思うと、柱時計その他が飛び散り驚いていると、外で人の騒ぎ声があり「何事か異変が有ったらしい」から防空壕に逃げよとの事で、大音寺の墓地へ登って見下ろすと街のあっちこっちより、火の手が上がり、たちまち大火となって、その轟音は耳をつんざくばかりで昼夜を次いで燃えつづけた、その凄しさは筆舌に尽くし難いことは当時を知る人はご承知のことでしょう。
投下の日より3日ぐらいでしたか、昼は防空壕の暗い混ざつの中に雑居し、夜になると壕を出て墓の空き地にゴロ寝して飢えに耐えての中に、
流言飛語が飛び、敵兵が上陸するから安全な場所へ移れ、特に婦女子は危険だからとのことで夜を待って茂木に避難することにした。
病気中の父を破損したリヤカーに乗せ兄弟で引いて暗い夜道を歩きました。先を行く人も後ろからくる人も避難する人達でしょうが、誰も声を出す者も話す人もなく虚脱の状態で手探りに歩いていた。漸く我一家の頼りにして来た望洋荘に着いて驚いた。
当時この荘は川南造船の保養所であり、父の管理下に有ったのですが、三菱兵機工場の被爆重傷者が収容されて、空き室は無いので廊下の応接間の椅子を片寄せて家族が身を寄せてのゴロ寝でした。
その中に天井より水滴が落ちて来るのです、真上の大部屋に重症者がうごめいていたので、今、思うとその方々の寝ながらの小便であり傷口からの化膿の水滴だったと思われます。
夜は重傷者の“水”“水”と叫ぶ声に起こされ、廊下に出ると顔の変ったお化けの様な被爆者が、水の有りかを探して歩く姿は、幽霊の様に見え、その凄惨さに怖気づいて部屋に逃げ込む少年の私でした。
離れの部屋から昼夜の別なく大声で叫び続けるのは、気の狂った被爆者だと聞きました。この望洋荘の大広間で私は世にも恐ろしい地獄絵を見たのです。
被爆者の見舞いに行く母の後ろに付いて行き、大部屋を覗いた時の悲惨と恐怖は身の震わんばかりでした。何十人も動けぬ人々や火傷者が部屋一杯にのたうちまわり、その惨状はとても言い表すことは出来ません。
声の出る人は肉親の名を叫び、声さへ出ぬ人は傷口の化膿で悪臭を放ちその臭いは廊下に流れ、傷口にウジが湧いた人は死を待つばかりの凄惨な生地獄を見たのです。
余りの無惨さに怖気づいて、逃げる様に階下にかけ降りました。 その翌日もなお、重症者がトラックに積まれて、運ばれて来るんです。 車の中で息の絶えた若い女の人は水脹れして、巨漢の様に腫れ上がり、正視することも出来ない姿に変っていました。 死んだ人は人手の足らぬまま庭に並べられて、火葬の順番を待つ有様で、原爆の惨虚さと恐ろしさを身に沁みて体験したのです。
茂木滞在中に三菱勤務の兄と共に友人の死体を探して浜町に二日ぐらい行った時の惨禍は直撃された地だけに凄惨を極め、私の拙い文筆では、とても表現出来ませんし、余りにも長くなるので省くことにしました。
何れにしても一瞬にして8万人の命を奪い、全てのものを破壊させる核の恐怖を体験した被爆者は声を大にして、この日の惨状を証言すべきでしょう。日本はおろか世界のいずれの国にも、かの地獄を再現させてはならないのです。子孫の為、後生のため、世界恒久の平和を希ふ為にも核の廃絶を訴へるべきだと、原爆忌30週年忌に当たり念願するものであります。 長い拙い文の記録をご判読願います。 昭和50年8月
進む 三菱の原爆犠牲者調査に力を注いだ原 圭三氏の死亡報道