1.三菱の原爆被害者調査に力を注いだ 原 圭三氏 の体験記録
原 圭三氏 平成19年1月16日に永眠(享年81歳)地方版ですが、NBC長崎テレビ及び長崎新聞で
報道されました。
2.原 圭三氏の遺言
*「原爆で死んだ同僚みんな、葬儀もできなかったのだから俺の葬儀はするな」
俺が死んだら*「戦時中ひもじい思いをしていた亡き同僚たちに食べさせることができるよう、
「銀シャリ」のおにぎりをたくさん入れてくれ!」と最後まで同僚を想いやる遺言を残していました。
3.長崎被爆実態
昭和20年8月9日11時2分長崎への原子爆弾を投下による死亡者約8万人。町は一面の焼け野原でした。
当時、原圭三氏(兄)は爆心地から700m程で地下に防空壕を掘っていて、その場いた同僚の犠牲者は384名が死亡。一番奥で掘り進んでいた2人だけが九死一生を得て生き残ったそうです。
しかし、当時は戦争中のことで、死亡した同僚たちの多くは、名前も分からず無縁仏として葬られて
いました。
3.「名前を探る旅」
その後、兄は三菱を定年退職後に同僚の無縁仏を親兄弟の元に返してやりたいと調査をはじめ、
「原爆や空襲で生き残った者の責務」としてコツコツと20年程掛けて6,294名の名簿を作成しました。
愛妻と供に自費で遺骨を遺族に届けるため、全国を捜し求めて旅しましたが、大変な苦労の連続で、
遺族の方々の対応にも、色々な人間模様が有ったようです。
(NHK記者 中村尚樹 「名前を探る旅」で出版)
4.戦争の風化
戦後61年を経過し、平和な日本では「戦争の風化」は仕方ないと思いますが・・・。
しかし、そんな中で豊田市の小さな山村の小学校の社会科でK先生は戦争体験の無い世代ですが、
長年にわたり地道に「戦争体験を掘り起こし」に努力され、シッカリと子供たちが「戦争と平和」
について考えさせるご指導をされている姿勢に大きな感動を覚えました。
たまたま、冬休みの宿題に「身近な人達に戦争体験を聞く」で孫はおじいちゃんのホームページから
「被爆体験記」を紹介した際にK先生との交流が始まりました。。
(2006.2月 HPブログにリンク) (カワセン先生の 「教務日記」 2007. 2 にリンク)
5.核兵器の廃絶の願い
何れにしても一瞬にしても8万人の命を奪い、全てのものを破壊させる核の恐怖を体験した
被爆者は声を大にして、この日の惨状を証言すべきでしょう。日本はおろか世界のいずれの国にも
かの地獄を再現させてはならないのです。子孫の為、後生のため、世界恒久の平和を願う為にも
核の廃絶を訴へるべきだと、原爆忌30週年に当たり念願するものであります。
(昭和50年8月 原喜久子 圭三の母)
50年8月 原喜久子 (圭三の母))
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